ドームハウスを作った

ドームハウスって何?

と問われれば、
「ドーム型の家」です。はい。

こんなの。


なぜそんなもの(ドームハウス)を作ったのか?

話しは長くなりますが・・・・



「想ったことは実現する」

そんな言葉を最近はよく聞くようになったけれど、
そんなこと、聞いたこともない1980-1990年頃、
自分はまさにそれを実感していた。
いつも不思議に思っていた。



どうしても登りたい山(岩壁)があると、
頭の中で何回も何回も「登っている自分」をイメージする。
なかなか登れない。

下のほうに小さく見えるのが嫁さん(たれきち)


でもあるとき、ふっと登れた自分のイメージが湧いてくる。
トレーニングなんてほとんどしたことないけど、
そうなったら行く。すると必ず天気にも、タイミングにも、
仲間や体調にも恵まれて登れる。



滝を直登中。Climbing Journal 誌に掲載の写真。


そのようにして学生時代〜20年ほどはクライミングばっかりやってきた。


いつでも好きなときに山に行ける、
「経済力」と「自由な時間」のために、
独立した貿易商人になろうと決めた。




3年間のお勤めで貿易仕事を覚えてから、
ノルウェーに住みついた。

住んでた家の窓から海が見える。


水産大国ノルウェーから鯖、あじ、ニシンなどを輸出しはじめた。

● 仕事がうまくいって軌道にのった。
● 中古の家を買って、ひと夏かけて修復した。
● ノルウェジアンフォレストキャットを飼った。
● ノルウェーのクライマーたちと南米アンデスに遠征した。
● たくさんの岩壁や氷壁を登りまくった。
● 仕事でだまされた。
● おまけに泥棒に入られて無一文になった。


どこに行ってもこんな岩壁がいっぱい



そんなこんなでいろいろあって日本に帰国。
貧乏。


家賃の安い埼玉に引越し、電気工事、水道工事。
なんか苦労話っぽいけど、この時代はすごく楽しかった。


前日の晩飯がカレーライスだった。
朝、その残りを食べて水道工事に行く。
あ、いけねぇ!今日は浄化槽設置工事だった!


まず、汲み取り式の通称「ポッチャントイレ」を撤去する。
とにかく臭い。
汲み取り槽を掘り出しているうちに
あっという間に「うんち」まみれになっていく。
とくに重機を使って掘り出すときは、繊細な仕事のできない初心者なので、
うんちはねまくり。ユンボーごとうんちまみれ。


それから外に2メートル四方くらいの大穴を掘って、
浄化槽を埋設。

配管をやって、タイミングをあわせて大工さんの作りなおした床に、
新しいトイレを設置。
とにかくその日のうちに、使えるようにする。

だから、これだけの作業を一日でやるのだ。


昼飯は水道屋のおかみさんが、「ほか弁」を買ってきてくれる。
メニューはおまかせなのだが、なぜかこの日「カレーライス」
おぉなんという無神経。

で、予想されるオチだが、
その日の晩飯も、まだ残っているカレーライス。



埼玉のこの地域ではなぜか、電気水道工事は同じ事業者が行う。

で、翌日は電柱に登ってうん万ボルトのトランスのバイパス工事をおっかなびっくり。
もちろん違法。資格なんかとってるわけない。

化学会社の仕事で、放射性物質の貯蔵タンクにも入った。
200ボルトの生きた電線を切って目の前がまっかっかになった。



そういやぁ、埼玉のこのあたりって
「世界の心霊マップ」にも載っているくらいすごいところで、
結構怖い体験もあった。



そんな楽しい埼玉生活に「娘の誕生」とともに終止符を打つことになった。



ばりばり働いている
かっちょいい父ちゃんの背中を見せながら
子供を育てるんだ!



なんかそんな風に思ってしまった。(我ながら思い込み激しいね)


で、
南米チリで生うにを処理する工場を借りて、
生うにをロサンジェルスに送って箱につめ、
築地に送って売る!



という事業計画書を書いた。
事業家でもあるうんと年上の山仲間が、運営資金を用意してくれた。



長女の誕生から半年もたたないうちに
工場を運営するため、単身チリに飛んだ。


チリの現地法人と合弁会社を設立


100人以上の従業員を雇って工場をまわしはじめた。
事業そのものは
「マネーロンダリング」がらみの原料価格の高騰により予定が狂い、
半年であっけなく撤退したが貴重な経験がいっぱいあった。

何よりショックを受けたのが、
我々投資家(金持ち)の居住区から丘の上にあがってはじめて見た、

「地平線まで広がるスラム街」

北回り航路の機内から、延々と広がるシベリアの雪原を見たときより、
はじめてヒマラヤの何千メートルもの大岩壁を見上げたときよりも、
胸を打たれる思いがした。

だって、そこには人が住んでいる。
地平線まで果てしなく、人が住んで、生きている。



従業員のほとんどはここから来る。
電話なんかないから、仕事のある日は自社で購入した
ボンネットバスで迎えに行くのだ。


「危険だから入るな」と言われたが、
何度も何度も訪れた。
嫉妬、羨望、後悔、やきもち、あらゆる感情をむき出しにする正直な人々。
でも皆優しくて、明るくて、親切だった。


従業員のほとんどがスラム街の人々


銃器必携という現実の重み発砲練習中。


共に働き共に遊んだ仲間たち。


さて、チリから帰国後はあらゆる事業に手を出した。
世界最大、ポーランドの漁業公団のエージェントとして
韓国で明太子(たらこ)原料のオークションをやった。
インターネット事業にもこのころから手を出していた。
意図的に噂を作る「仕掛け販売」なんてのを初体験したのもこの頃。


それぞれが新しい体験だし、
わくわくするような刺激に満ちた仕事。


ただ・・・
自宅は東京下町。
長男も誕生して、どうやらこの地に腰を落ち着けることになりそうだ。

それなのに大好きな「自然」がない。
玄関を一歩でると車が走り回っている環境では
子供は好きに遊ばせられない。



週末だけでも、
自然の中で過ごすためのベースがいるな。
そう強く思った・・・というか、決めた。


この頃からイメージ操作というのを意図的にやるようになっていた。


理想は自宅から車で1時間以内。
自然がいっぱい。
子供らの走り回れるだけの面積。


自然の中を自由に走りまわって欲しい。


まず資金ができた。
ふって湧いたような仕事が入ってきたのだ。
部屋に現金がごろごろ転がっている。今なら小屋くらい作れるぞ!


そして土地が確保できた。
栃木在住の親友(木工業)が作業場移転のため、
山中に土地を買うことになった。
必要なのは200坪だが、1反(300坪)単位でないと土地が買えない。
100坪をわけてもらうことになった。


そしてドームハウスがやってきた。
学生時代の悪友(フリーライター・女性)と飲んでいて、、
最近取材をしたというドームハウスの話しを聞いた。
これは面白いという話しになった。


「決め」の一言はこれ。



自然の中にはそもそも
直線の空間ってものはないのよね。
だから四角い家の中では
自然人は落ち着かないのよ。


こうして、あれよあれよと言う間に
ドームハウスができあがった。

ドームハウスの近所


こうして、週末がくるたびにドームハウスに通うようになった。
金曜夜、仕事が終わってから、
飯食って風呂入って寝巻きに着替えた子供らをつんで我が家を出発。
1時間半後にはドームハウスに到着。

土日ゆっくり過ごして、
日曜夜に、
飯食って風呂入って寝巻きに着替えた子供らをつんでドームハウスを出発。

このくりかえし。
子供らはいつも寝ている間に移動していることになる。



ドームハウスは週末に、仲間を集めて、
盛り上がることに特化して設計した家。


最重要ポイントは屋外の囲炉裏(というかバーベキュー?)

週末にこんな感じで盛り上がるのが最大の楽しみで・・・・


もちろん内部には形状を生かしたクライミングボードも設置。



そしてドームハウスを中心にすべてがまわりはじめた。